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幸福を感じさせ、生きる意味を与え、全てを可能にするもの。

 

数ある愛の定義の中でも「愛は与えるもの」というものがあります。

不登校やひきこもりの親御さん達の多くは「わが子が不登校やひきこもりから脱してほしい。そして、(普通の)社会生活に戻ることで(親自身が)安心を得たい」と思われるのが通常です。

しかし、それは”子どもから、親が安心を与えてもらうという構図”とも言えるのです。

先の定義の視点から見ると、これは”親子の立場が逆転している”ような気がしてしまい、誰がための「愛」なのかと思う事があります。

辛口で申し上げると、親の自己愛修復のために子どもを利用してませんか?と感じることもございます。

子どもが親の手前、親の価値観を尊ぶために涙ぐましい”健気な努力”をしてきている事例が散見されるのです。

ここで視点を変えて考えてみて欲しいことがあります。

 

 

皆さんは「搾取する人や、人の努力を当たり前のものとし、どこまでも”与えてもらう側”でいるような人」をどう思われますでしょうか?

きっと、嫌悪感を持たれるのではないかと考えます。

私もそう人たちと関わりたくないと考えますし、同時にそうならざるを得なかった人(搾取者)を気の毒に思ったりします。

昨今、”やりがい搾取”なんて言葉がありましたが、これは親子関係にも言えるのです。

”親が子を導いていくこと”はある意味で大切であると思います。しかし、子どもを自分の所有物のように扱い、親側のニーズに応えないと腹をたて、怒りをぶちまける…そんな親御さんの事例と巡り合うことはままあるものです。

 

その時、私はこう思うのです「愛を人質にとられた子ども」が学習するのは、「愛やお金、物を人質にとって他人を支配するスキルだけ」ですよと。

 

 

でも、子どもは(親から見て)”価値ある存在でいたい”と思うので、ギリギリまで健気な努力を続けてしまう。

その時間、子どもは親に尽くしているため、自分の人生を生きていないのです。

これを大学卒業あたりまで続けてきた場合、社会参加という自由度の高い本当の意味での”自分の人生が始まるとき”、自分の生き方が分からず立ち止まることが多いのです。

 

不登校の原点も”自分の人生を生きれていない”

それは、親が知ってか知らずか「愛という人参をぶら下げて、子のやりがいを搾取してしまっている」

ここにあることが多いように思います。

 

 

愛はヒトに幸福を感じさせ、生きる意味を与え、全てを可能にしていくチカラがあるものです。

親から無償の愛を受け取った、そんな愛が詰まった子はやはり強いのです。

一方で、親から受け取った愛が乏しい子からは、やはり弱さを感じるのです。

 

(息子が久々に職場に遊びに来ました)

 

親であるあなたの愛は「与えるもの」ですか?

ここから考えてみると、不登校やひきこもり回復の出発点が見えてくるのではないでしょうか。

もう一度言います。

 

ヒトに幸福を感じさせ、生きる意味を与え、全てを可能にしていくチカラがあるもの、それが「愛」です。

 

親育ち・親子本能療法の実践を通して「どんな難しいこと(大変なこころの病、大困難/錯乱、絶望的状態からの回復)も可能」になっていく…そんな奇跡と日々出逢っています。

 

我々、親育ち・親子本能療法家は「大まじめに愛について取り組んでいる」のかも知れません。

 

そして、息子の幸せを願う私の愛が「与えるもの」であれるように、私自身が逞しくあろうと思います。

 

臨床心理士
桝田智彦(ますだ ともひこ)

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