昨年、無理をしてしまったので年度内46歳になる私にもガタが来る事態になりまして。
今年は大切なことを2、3達成することを目標にさせて頂いて、あとは『妻子との時間』を第一にする年にさせて頂きたいと思います。
振り返れば…
恵まれた二十代の最中分かったのは、どんな時でも『他者の人生を生きてはならない』ということ。
三十代初頭の絶望から、改めて母親に親子の縦糸を通して貰えた事で自分発進からの三方よし(自分よし、相手よし、社会よし)のマインドが身につきました。
一方で四十代半ばにして分かったのは“息子のために命を張って生きること”の大切さです。
『親子から迷惑を引いたら、何が残るのでしょうか?』。
ある方のこの言葉を聞いた時に、最もだなぁと思いました。家族は他者ではないのですから。
その意味で、ひきこもり業界で時折聞こえる『親は親の人生を』という言葉に、私は違和感を覚えます。
私は“我が息子”のためなら、“彼が何歳であろうと命を張る覚悟が出来てから”親にならせて頂きました。
いろんなひきこもり・不登校講座で『親は親の人生を』という言葉が聞こえます。
しかし、そういう発言をする支援者や登壇者自身が“実の親との間で、真の意味での信頼関係を構築出来ていないのでは?”と感じる事がしばしばです。それか、ただのサービスワードなのか。
「親は親の人生を」は、その発言者の価値観であって、私に言わすと心理学的な根拠がない。
それに加えて、それを言ってしまうことでひきこもりに苦しむ青年・青少年への人生に関わる影響リスクや責任を取れるのでしょうか?
もっと、その発言の影響力を慎重に考えて欲しいなぁと思います。せめて一義的になさらないで欲しい。
はっきり申しあげて、『親は親の人生を』は、追い込まれている、絶望している方々からの正直な言葉だとは思えません。
(発言自体はあったとしても)
心理学的に考えても、人間の発言は必ずしも心の中そのものを言語化する訳ではないので、この点からもとても疑問を抱く言葉なのです。
なぜなら。
親が絶対的な味方であり、無条件肯定を始めると、多くのお子さんらが『産んだのだから責任とれ!』『私(俺)のことをもっと考えてよ!』と言い始めます。この言葉は、前者と比して非常に対照的と言えると思います。
この言葉は、追い詰められた人間が紡ぐ言葉としてとても正直・素直だと私は思います。
ただ、正直に、情けなくても、自分にカッコがつかなくても、親だから言える。いや、親に言いたい、分かって貰いたい。
両者にとって都合の良いコトだけではなく“ネガティブを共有できる関係”こそ、“良質な真の親子関係”だと思います。
親に頼れる素直さからスタートしたひきこもりや心の病いの青年たち。その回復には目を見張る程の強さが有る事実。
親子の縦糸が通っていることで“一本筋のある”、人の評価に惑わされない回復を見せるのです。
勿論、我が子にすべてを捧げろとは思いません。理由は単純明快で『親が元気でないと我が子を支えられないから』です。
『産んだのだから責任をとれ』という言葉に対してそう思う方、そう思えない方がいらっしゃっても良いと思います。
これは、右手と左手ほどの違いと思います。良い悪いではない。
そこは大きい違いがありつつ、利き手がどちらであろうと等価値であること同様です。
選ぶのはその方自身の問題であって、私の問題ではないのです。
よって、私が親御さんにああしろ、こうしろ決断を迫るのは筋違いであり、私の仕事ではないと考えてます。
ただ45年生きてきて思うのは、
結局、人は“素直な気持ちで自分の価値観”を問いつづけ、その“価値観広げるか否か、日々を感謝できるか”で人生が変わっていくのだと思います。
私は『子どものためなら命を張る、怖いけど変化を受け入れていく、そんな生き方をしている人』が好きです。
そんな生き方をしている方々が、どんな絶望的(親御さんが語る言葉です)なひきこもりからでも回復を導き出しているのです。
だからこそ私も『変化を受け入れ、有事の際には我が子のために命を張る』。
そんな父親であり続けたいと思います。
それが、私と息子にとって一番大切な事だと思うからです。
先日も『“親は親の人生を“と教わり、そうしてきましたが、苦しそうな我が子を前に“何かが違う”と思って相談に来ました』という親御さんがいらっしゃいました。
本日もブログをお読み下さり、ありがとうございます。
桝田智彦(ますだ ともひこ)
この記事へのコメントはありません。