私の誕生日は3月なのですが、その1か月後には親友の命日がやってきます。
命日を迎えると、あの日からどれだけ時が流れたか?どれだけ自分が歩んで来れたか?をどうしても意識してしまうもので。
親友がこの世から唐突にいなくなった悲しみは永遠に消え去らないけど、あの日無縁だと思われた喜びなんてものが自分の中に積み重なっていることに気がついたりするワケでして。
こうやって人は過去を忘れていくのかな?。だから、人は時間を「無常」、「残酷」と呼ぶのかと思ったり。
一方で、「時に癒されること」「時間が解決すること」があることを知りました。
その恩恵を賜った自分だからこそ、思います。
どちらにせよ、何処を軸にしても全ては流れて(動いて)いるのだと。
あの日、絶望と孤独のどん底にたたき落とされた気がしたけども、今は当時への見え方が少し変わっていまして。
それは「自分はずっと孤独ではなかった」ということ。
母親をはじめとする、自分以外の誰かが心のそばで寄り添ってくれたからこそ私の心は癒えたのだと思います。
時間は人を癒す力を持ちますが、孤独状態ではその力を発揮することはないと思います。
そして、他人が他人に寄り添い続けることは難しいと思います。
何故なら、他人の愛は多くの場合、限界があるから。
だから、これは他人ではない「親にしか出来ない業」なのだと思います。
もし将来、息子に絶望が襲いかかったら、親である私は息子が癒えるまで寄り添おうと思います。
待つことを愛に変えられるのも、また親であると思うからです。
これを読んで下さるひきこもり、不登校、心の病気のわが子を持つ親御さんのこころに届いてくれることを祈ります。
いつか来世で親友と会った時、父親になった気持ちを面倒くさがられる程に話してやろうと思います(笑)。
「息子の誕生(命)を望んだのだから、俺は責任とるぜベイベー!」って。
「やっぱり、お前さんがいないのは寂しいぜ」って。
スタンド・バイ・ミー。
本日もブログをお読み下さり、ありがとうございました。
桝田智彦(ますだ ともひこ)
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