このブログをお読み下さっているのは、主に「ひきこもり」や「不登校」の子を持つ親御さんかと思います。
みなさんは「死にたい」と思ったことはありますか?
生きていれば、誰でも一度はあるかも知れません。
しかしながら、具体的な方法まで考え、『どんな方法を取れば人に迷惑をかけないで死ねるか?』
ここまで考えたことがありますでしょうか?
私はあるのです。
この事は本にも少し書いたので、時にインタビュワーの方が踏み込んだ質問をして下さいます。
『とても、過去の履歴と今のあなた(桝田智彦)を見ていて、ひきこもり、死にたくなる程に落ち込み続ける人だとは思えない…』というニュアンスで。
私にとって、親友は一番大切な人間だったのです。いつまでもグリマーツインズの様な未来が続いていくと信じてやまなかったのです。
そんな大切な人間がこの世を去ってしまったのに世界は何一つ変わらず動き、日はまた登る。
そんな当たり前の日常があることに、異様な違和感と命の儚さを覚え、絶望しました。
そのあと
落ち込みはて、活動が止まった自分が死んだところで、きっとまた世界は何も変わらず動いて行く。
何の意味を持たない自分が生きていても死んでいても、世界は何の影響を受けもない。そんな存在の自分で辛いだけなら、もう終えてしまおうと…」。
今振り返り、あの時、実の母親が(婚姻関係中にある私に)グッと踏み込んで私を実家に戻してくれなかったら既に死んでいるかも知れません。
それから紆余曲折あり、今分かる、「死にたい人の気持ち」。
それは…
『本当は生きたい』ということ。
でも、条件がついてしまうのです。
「◯◯がいれば(◯◯があれば)…」「◯◯が◯◯だったら…」「◯◯からやり直せるなら」
こう思っている時点で「本当は生きたいんです」。
だから、親御さんには“我が子の存在”を『無条件で肯定』して欲しいんです。
「◯◯がなくても」「◯◯が◯◯でなくても」「いつからでも大丈夫」と言うお気持ちで。
「ひきこもり・不登校から社会へ」と言われますが、第1社会は家庭です。
第1社会が(心身ともに)安心安全、出入り自由じゃないと、社会(俗世間)には出て行けません。
我が子が親へどんな絶望、憎まれ口、知ったかぶり、恨み節を言ってきても、『その言ってくる』という行為には「自分の意思を伝えたい」という欲求があるのです。
人間は思った事(願った事)しか口にしないのです。
ですが、追い込まれたり、絶望している人から出てくる言葉は往々にして逆となってしまう事を覚えておいて下さい。
「死にたい」は『生きたい』です。
その意味を知って下されば「馬鹿言うな!」と言う正論は慎み、我が子に伝えてあげる際、そこまで追い込まれている気持ちを感じながら…
『お前は私にとって大事な息子(娘)なんだ。だから生きていて欲しいんだ。それだけでいいんだ。』と。
親が『自分の命を大切に思ってくれている』と我が子が信じられれば、どんな厳しい状態からでも欲求は生まれ、岩場のような土壌からでも希望の花は咲いていくのです。
本日も最後までお読み下さり、ありがとうございます。
桝田智彦(ますだともひこ)
⬇️ 講演のお知らせ ⬇️
●2019年9月28日(土)
福井県越前市社会福祉協議会
タイトル:「親から始まるひきこもり回復]
場所:福井県越前市文化センター
時間:13:30~
●2019年11月30日(土)
福井県 反貧困キャラバン福井実行委員会
タイトル『おとなのひきこもりの“今”。~親ができること・社会にできること~』
場所:福井県教育センター4階大ホール
時間:14:00〜
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